橘御園の物語

摂関家(藤原氏)の所領で、エリアは時代に異なるが、伊丹市から尼崎北部に広がる荘園。

元々は、行基さんが昆陽池を開墾し、奈良時代の班田収授法やその後の墾田永年私財法などの背景もあり、開墾地が加速した。

 

まちづくりが進むと、当時の首都である京都に近い伊丹は地価が上がり、稲作から柑橘類の作成に変わった。

この辺り一体の柑橘畑を橘御園とよぶ。

 

 

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  • 尼崎の「たちばな」の名前の由来はここから来ているのでしょうか?

    もしかしたら、稲野の由来は「稲作が盛んで稲の野原が広がっていたからなのかしら?」などと想像が広がって楽しかったです。

    • 立花の地名由来が、橘御園とはっきり断言する資料は残っておりませんが、偶然同じ名前というのは考えにくいかと思います。
      また立花には橘通という道路もあります。これらはすべて橘御園であると考えられます。

      猪名野については、稲野表記になるのは随分とあとで、江戸時代末です。ですので、猪名川で開かれた野原と考えることができます。
      昔でいうと、口酒井、田能あたりが猪名であったと思われます。
      猪名野は猪が由来しているのではなく、為奈という人が住んでいたことに由来しているそうですが、猪名野の歴史は古くて、由来ははっきりしません。

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