伊丹物語 飛鳥時代

伊丹市は、西に武庫川、東に猪名川に挟まれた平野である。

しかし、昆陽には断層が走り、まわりより少し窪んでおり、北から南に向けて流れる、天王寺側と天神川が昆陽の窪みで方向をかえ、西へ流れる。この辺りは天然の池になった。

このため、昆陽付近は湿地であり、大雨では氾濫を起こすような土地柄であったと思われます。

 

 

そこへ、狭山池の改修を終えた行基さんがやってきました。

 

天王寺川と天神川の方向転換になっている昆陽の窪地に昆陽池を造営しました。

 

昆陽池造営時の病院や学校などの事務所として昆陽布施小屋を建立しました。

その後、昆陽寺として、今も伊丹の171号線で見ることができます。

行基さんはそれまで、「法律を破り、人々を惑わす」として弾圧されました。

その後、聖武天皇は民衆の絶大な支持を得ていた行基の力を認め、東大寺の大仏建立という国家的な事業に協力するよう依頼しました。

 

こうして、行基さんは、大僧正の位のくらいを授かった。

 

また、昆陽には肥沃な大地となり、奈良時代、平安時代を経て、橘御園と呼ばれる大荘園へとなりました。

 

 

 

Comments

This post currently has 2 responses

  • 伊丹の飛鳥時代の事、地形の事がよくわかりました!

    なぜ行基さんの像が伊丹にあるのか不思議だったのですが、地元のヒーローなのですね。

    昆陽寺ももう少し調べて今度行ってみたいと思います!

    • コメントありがとうございます。

      行基さんが昆陽の治水工事に訪れた理由ははっきりしません。
      ・行基は全国行脚してたので、見て知った 説
      ・奈良で伊丹の話を聞きつけて、治水にきた 説
      などありますが、昆陽に治水に訪れたのは偶然ではなく、計画的に治水に訪れました。

      きっと彼には、ここを治水すれば、民が豊かになると考えたのでしょうね。

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